(1)私と長屋
私は、58歳、未だに「天命も知らず」に、歳を重ねてきた。 その私が、街の景観の一部とし、あたかも、空気のごとく、意識せずに、毎日、毎日、58年間、目にしてきた物がある。 それは、玄関を開けると否応なしに目に飛び込んでくる戦前の長屋である。 その長屋は、昭和7年(1932年)生まれで、私より12歳も年上で70歳になる。 木造住宅としては、十分過ぎるほど、高齢であり、もう、その寿命を全うしたと言われてもおかしくない年であるが、その長屋に異変が、起こりつつある。 その長屋には、私が生まれる前から住んでおられたおばあさんもおられたが、90歳代半ばで天寿をまっとうされた。 それが、数年前のことである。長屋といっても、たった一棟で4軒があるに過ぎない。 私の、祖父が、親父のために、建てた物で、幸い、最近まで借り手がなくなる ということは、無かった。それは、地下鉄御堂筋線の昭和町の駅から、1分程の立地で、利便性がものをいったとは思うが。 しかし、その長屋の入居者も、最近の数年間のうちにすべて退去してしまった。 建替えの時期が、到来したということを感じさせるものであった。 建物の寿命としても、十二分に役割を果たしたといえた。 建築関係にかかわっている私としては、「商業地域であり、防火地域内の木造の建物である。しかも、容積率が、400%という地域で、現在、100%しか利用していない土地利用は、都市計画的にみても不合理である」と言えた。 退去後の長屋は、古くて、建具も痛んでおり、設備も旧式のものが目に付いた。 このような現状をみると、長屋を生かすという発想は、どこからも出てこなかった。
(2)建設業者の訪問
駅から近いこと、古い戦前長屋、誰の目からもみても「家主は、近いうちに建替 えるであろう。」と映って当然である。 賃貸住宅を建設する建設会社が、しかも、1社でなく数社、「計画をつくらせてほしい」ということでの訪問を受けた。当時、建て替えを考えており、願っても無い話なので、お願いすると、いろいろな計画が示され、採算計画の提示も受けた。 賃貸マンション、それもワンルームの場合や世帯向けの場合、また、老人ケア付マンションなども提案された。 どれも、採算計画がきっちりしており、建築計画についても、法律を駆使し、出来るだけ、多くの床が確保できるように、良く考えられたものであった。特に、それらの人達の休日や夜間をいとわぬ熱意と迅速性には、頭の下がる思いがしたものである。
(3)長屋再生の訪問
ゴルフの帰りに、「私の家の前に戦前長屋をマンションに建替える」という話を、車の中で、友人にいうと、「ぜひ、見せてほしい。長屋を研究している先生を知っているので」ということになった。 そして、後日、訪問を受けたのが、大学や工業高校の建築の先生方や学生さん達であった。そのなかに、超モダンな設計をしている建築家の菅さんがおられた。 長屋の中を案内し、私にとっては、何とも思っていなかったのであるが、学生さんが、電球の三叉ソケットを、始めて見たといって、驚いているのを見て、私も驚いた。そういえば、家庭では、ほとんどが蛍光灯にかわり、便所などの電球にしても、そのソケットはひとつだけのものしか目にしなくなったためだろう。 それでも、その時は、まだ、長屋を取り壊すまでの研究の対象になればということぐらいにしか思っていなかった。
(4)天の声の訪問
しかし、それから、これまで、思ってもいなかったことが、いろいろ起こってきた。 ある時、親子連れが、表通りから、わざわざ入ってきて、子供に「お父さんが、小さかった時は、みんな、こんな家に住んでいたんだよ。」と聞かせて、すぐに立ち去って行った。 また、家の前に立ち止まって、中年の夫婦が、長屋を指差し、話をしている。 尋ねてみると、「長屋のなかでも、この長屋は、デザインされているので、ぜひ残してほしい」という。私としては、「残すには、改修しなければならず、そのためには多額の費用が、必要で、それだけの費用をかけても、今の人は、古いといってなかなか借りてくれない」というありきたりの話をして、家に入った。 このようなことを聞かれたことは、この年まで無かった。
それから、しばらくして、この前に訪問された菅さんから、長屋を1戸だけでも残せないかというラブレターをいただき、また「少しだけでいいから時間をとって、話だけでも聞いてほしい。」ということであった。
話を聞くとずるずる引き込まれてしまい建替えができないという家の者の心配もあった。わざわざ手紙までくれており、そのままにするには、忍びないので聞くぐらいは、どうこういうこと無いと思いで、長屋に対する熱意のある話を聞かせていただくことになった。
そのようなことがあり、私なりに、「これらのことは、何を意味しているのか。」ということを想いだした。 「このような声を、聞かせていただくのは、物言えぬ家からのメッセージでは、ないか。いわば天からの声では、ないか。」ということであった。 そのような目で長屋を、見てみると、これまで、老朽という言葉で片付けられてきた、この長屋が、愛しいものに感じられるようになってきた。 これをつくった大工さんの心が伝わってくる感じがし、「昔の方が、建物に対し、 美しくしたいという想いが、こもっていたのではないか。」と想えてきた。
(5)建築構造の専門家の訪問
それでも、長屋を残すということには、心配事があった。地震と火災という建物の基本的な安全性に関する問題であった。 阪神淡路大震災で亡くなられた犠牲者約6500人のほとんどが、木造家屋の倒壊によるとされている。木造だから火災は、ある程度、仕方が無いにしても、震災で倒壊してしまうと、直接、人の命にかかわるものである。その安全性についてどのように解決するのかという難題を、私は、菅さんにぶっつけてみた。 すると、菅さんは、京都大学の建築構造の専門家であり工学博士の西澤英和先生に、連絡して下さり、わざわざ現地まで先生に足を運んでいただけることになった。 難題をぶっつければ、何倍にもなって返ってくる感じで、それこそ、どんどん、抜き差しならぬ方向に進んでいくのが、感じられた。 就職して以来、駅前の再開発に携わった経験があり、多くの店舗や住宅などを潰し、鉄筋コンクリート建てのビルに建替える仕事をしてきた私にとっては、まだ、まだ、建替えにも一抹の未練があったのかも知れない。
しかし、西沢先生に診ていただき、昭和初期の木造建築は、大工さんの腕も良く、きっちりした仕事していること。経験則によって、震災のことも配慮されていること。などを教えていただけた。そういえば、この長屋は、南海地震、東南海地震を経験しており、何事も無かったのである。 特に、先生の話で驚いたのは、私のこれまでの常識と違っていた。木造建築は、柔構造であるので、震災の際、ある程度、揺れても元に戻るように考えられている。従って筋交い等で一部分だけを固めない方がいいということなどの説明を受けた。揺れた際に生じる損傷に対する修繕方法も戦前は、確立していたという。 ただ、木材が腐食したり、白蟻の害で柱や土台が損傷している部分があると、当然のことながら力が伝わらない。そのような部分を補修しないでそのままにしておいて、潰れた現象だけを見て、「伝統工法による木造建築は、弱いということにならない」と言われた。 そして、阪神大震災の場合、木造建築といっても、神戸市などの都心は、戦災でほとんどが焼失し、その後に建てられた市街地が多い。そこに建てられた住宅は、住宅不足を短期間に解消する必要があるために、粗悪な木造建物も多く、それらが倒壊したのであって、戦前の伝統的な木造建築では、ほとんど死者がでなかったといわれた。これまでの不安が取り除かれる気持ちになった。 さらに、この長屋は、借家としては、かなり凝った物なので、これを建てた私の祖父は、家道楽の趣味があったのかと問われた。しかし、私の祖父は、小学校の先生をしており、退職金で別の長屋を建てたと聞いているが、そのような趣味があったとは、聞いていないと答えた。 次に、私にとって、想いもかけなかった言葉が耳に、飛び込んできた。「これは、登録文化財になるなあ。」といわれたことだ。 「文化財なんて、とんでもない。豪邸でもないし、それに、改修するにしても、いちいちお役所の指導に従わなければならない。百害あって一利なし。」ということが、頭をよぎった。登録文化財のついての説明をしていただいたが、半信半疑の気持ちもあり、耳を素通りする感じであった。
(6)登録文化財への道
しかし、登録文化財のことが、気持ちのどっかにひっかかっていたのであろう。 同じ、残すのであれば、何か箔がつくように感じ、インターネットで、これまでの事例を調べた。すると、画面には、いわゆる文化財というにふさわしい豪邸が、並んでいた。長屋のような庶民住宅は、とうてい考えられなかった。 それでも、登録文化財とは、どういうものなのかを勉強する意味もあり、大阪府の文化財保護課の林さんを、訪ねた。 林さんは、「大阪府は、余り知られていないが、文化財の指定が意外と多くあること。長屋のような建物は、これまで登録されたことがないので、面白い」ということで興味を示された。 登録文化財は、国宝や重要文化財などの指定文化財と違い、基本的に50年以上たった建築物の外観を保存し、まちなみの景観にも寄与するのが、目的であるという。 だから、建物内部については、自由に変更でき、外観も4分の1以内の変更ならば自由であるというような、これまで、思っていた文化財の概念とは、著しく違うものであった。今後。できるだけ多く登録していきたいという。 そのようなものであるのなら、私も大阪府で30数年、まちづくりに携わってきたので、何か協力できるような気持ちになった。 手続きなどについて聞いたが、意思表示さえすれば、手続きは簡単であるという。 その晩、家でその話をすると、妻は、半信半疑の顔つき、子供たちは、しらけた顔 で、「成りそうもないこと」を言っているという感じで「好きにしたら」という。 しかし、所有者の父親が、「それはいいことだ。」とうれしそうな顔をしたので申請することに決まった。 その後、大阪市の文化財保護課の植木さん、国の文化庁文化財部の西さんが、どんな建物かを見に来られたぐらいで、私としては、何もしないうちに、決まったという感じであった。 この長屋を、この時期に登録文化財にしたことが、大きな意味を持っていたことは、1年後に、わかることになった。
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