ようこそ登録文化財へ 寺西家阿倍野 長屋・町家
築70年の長屋・町家を再生して、嬉しかったこと! *寿命ある建物を壊して、ゴミにしてしまわなかったこと *建築家、宮大工、恩師や友人、近隣の人達との和のつながりができたこと。
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第8回 平成25年(2012)4月29日(昭和の日)
 毎年、拡大を続けてきたお祭りで、今回もメイン会場の桃ケ池公園では、文の里中学校・吹奏楽部のオープニングに始まり、夢舞ingなどの地域団体の演技、日本を代表する明浄学院高等学校・吹奏楽部の演奏、恒例となった人気のプロレスリングやザ・たこさんなどに加え、昨年、他界された桑野正博氏の追悼ライブがご子息の美勇士によって行われました。
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第8回 桑名正博追悼ライブの美勇士

また、地域に根差した魅力的な店や街づくり団体などが、創意工夫し、私たちの生活や地域の魅力向上のためにバイローカルとして桃ケ池公園の南側で行い、好評をはくしました。
桃山学院では、昨年につづき、生徒やOBの方々の演奏に加え、グレース幼稚園のお母さんコーラスが加わり地域とのつながりを深めました。そして温井校長先生も卒業生のライブに加わり、舞台が一体となった演奏が楽しめました。
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第8回 温井校長先生とオトナリ

阪南中公園と苗代小学校では、「昭和の遊び広場」として、昔遊び、工作あそび、駄菓子屋さんダンボール遊園地などがあり、ミニステージでのライブなどでは、天王寺高校や阿倍野高校の生徒さんたちの企画段階からの協力がより楽しいものにしてくれました。
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第8回 阪南中公園 工作あそび

寺西家では、料理研究家の程一彦氏の講演会と最後の宮大工といわれた西岡常一棟梁についての映画と講演がなされました。
また、その他でもグレース幼稚園では、人形劇団クラルテによる「人形劇かさじろう」が上演され、尼崎信用金庫昭和町店で「世界の貯金箱店」、sutadio mignonでは、「お金の寺子屋」、田辺うたごえ喫茶が桃ケ池公園市民活動センターで行われるなど・・・・多彩な催しがされました。
そして、昭和文化隊は、姉妹屋の衣装協力、月のゴンドラ歌劇団やマリオネット・ラブリーの協力のもと昭和の衣装で文の里商店街などでパフォーマンスをし、道行く人たちの目を楽しませました。


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建物の再生が地域の再生へ発展
長屋の若者達から始まった
地域での手づくりのお祭り「どっぷり昭和町」


1、はじめに
 大型連休のはじめに行われる「どっぷり昭和町」は、長屋の飲食店で働く若者達の発案で平成18年から始められ、年々、規模が拡大し、今では、阿倍野区3大祭りの一つになっております。

3大祭りとは、帝塚山音楽祭、阿倍野カーニバルそして「どっぷり昭和町」です。

<基本的事項>
(1)団体名(フリガナ)  【どっぷり、昭和町(しょうわちょう)。】実行委員会
(2)活動概要  毎年、 4月29日 開催
   昭和の日に昭和町で昭和建築の文化財を中心に
   昭和の文化を味わうお祭を開催
(3)代表者   会  長  寺西 興一 TEL 090-5136-6989
         事務局長  四井 恵介 TEL 06-6624-1127
         〒545-0011 大阪市阿倍野区昭和町2-19-28青葉グランドビル402
                 (有限会社 地域・アシスト事務所)
(4)初回開催  平成18年(2006)4月29日
(5)表賞歴 
   ○大阪ミュージアム登録認定(2009.1)大阪府知事 橋下 徹
   ○第26回大阪都市景観建築賞(愛称 大阪まちなみ賞)
   ○寺西家阿倍野長屋が大阪市長賞を受賞(2006.12)
                                    大阪市長 關 淳一

【どっぷり、昭和町】活動について
2, 活動について

(1) 活動開始のきっかけ、経緯

 昭和時代の前半、大阪市阿倍野区は、建築の大部分が長屋という町並みであったが、高度経済成長期以降その大半が姿を消した。
その状況の中でも老朽化した長屋が、宮大工の手によって、見事に建設当初の雄姿に再現されて、第26回大阪都市景観建築賞(愛称 大阪まちなみ賞)で大阪市長賞を受賞することとなった。そして、それは、長屋建築としては、全国初の国の登録文化財となっている。

 当時の景観を色濃く写し出す、長屋を中心に、長屋で働く若者達が、地域の文化の継承、「縦」の閉鎖的なマンションに対し「横」の人情味溢れる長屋コミュニティの必要性を具現化したいという想いで、2007年「みどりの日」から「昭和の日」に祝日の名称が変わるのを契機に「昭和町」で「昭和の日」に「昭和の文化財」で「昭和の文化」を味わうお祭【どっぷり、昭和町。】を次の目的のもとに2006年から毎年4月29日に開催している。

① デジタル化された便利な現代には無い、アナログな人の温もりの必要性を再認識する。
② 使い捨て(大量生産、大量消費、大量廃棄)の時代に木造の長屋建築や庭という自然と共生する価値を再認識し、その建造物を使い続けることによってその文化を後世まで遺していく。
③ 昭和という時代(戦前、戦中、戦後、高度成長期)を再確認し、未来への道標にする。
④ 昭和町というまちを大阪中、関西圏、日本中、世界中に認知してもらう。
⑤ 昭和町の地域で、お年寄りからお子様まで幅広く喜んでいただくようにする。
⑥ 外部からわざわざ昭和町に来られた人達にも親切にし、喜びの和を拡げていく。
⑦ 日本全国に99カ所ある「昭和町」と連携して【どっぷり昭和町】の同時開催を目指す。

【どっぷり昭和町】活動経過 第1回 平成18(2006)年4月29日
【どっぷり昭和町】活動経過

第1回 平成18(2006)年4月29日

・長屋及び町家とその間の私道を中心にライヴ( SugarMama、U-LALA)落語会(笑福亭生喬師匠)、展示会( 大阪阿倍野に現存する長屋写真展)、出店(昭和町で活躍している店舗)などが行われた。
・プレ「昭和の日」という年であったが、多くの人の共感を呼び、来年もという声も高まり、「どっぷり昭和町」の基盤がつくられた年であった。

どっぷり昭和
第1回 「どっぷり昭和町」長屋前

【どっぷり昭和町】活動経過 第2回 平成19年(2007)4月29日
【どっぷり昭和町】活動経過

第2回 平成19年(2007)4月29日

・「食・住・楽」をテーマに大阪府の楽座事業に認定され(財)21世紀協会、大阪商工会議所をはじめ10団体を超える後援のもと、ライヴ(Sembello aka東京スカパラダイスオーケストラ、ぶっきら兄弟)、落語会(笑福亭仁昇) 、講演会(なにわ伝統野菜復活にまつわる話:上野修三)、なにわ伝統野菜の展示、若手アーティストの個展、出店などが、実施された。又、ちんどん屋風に演奏しながら行進(ぶっきら兄弟)もされた。
・この年から祝日の名称が「昭和の日」に変わることで、マスコミ各社が、「どっぷり昭和町」のイベントを直前には「近場でG.Wを満喫できる企画」「町おこし・回顧イベント多彩」等として報道され、翌30日の読売新聞の朝刊1面にカラー写真入りで大きく掲載されるなど、マスコミ各社にとりあげられた。
(参加者約3,000名)

昭和の日
第2回「どっぷり昭和町」翌日の読売新聞1面

【どっぷり昭和町】活動経過 第3回 平成20年(2008)4月29日
【どっぷり昭和町】活動経過

第3回 平成20年(2008)4月29日

・会場を長屋周辺から更に150m北上した小学校の講堂及び近くの児童公園をお借りして「点」から「線」拡げた。又、地元で活躍の関西で一番古く長い歴史の落語会を主宰している「田辺寄席世話人会」の協力を得て、落語家15人による前代未聞の大落語会が(桂文太、笑福亭呂竹、りんりん亭りん吉、笑福亭たま、桂米左、桂春駒、桂佐ん吉、笑福亭生喬、桂あやめ、林家染太、笑福亭仁昇、桂雀松、桂ちょうば、桂染左、菊池まどか〈浪曲〉)が、小学校と町家で開催された。

・そして、ライヴでは、(田中邦和jazz torio aka東京スカパラダイスオーケストラ、ドーベルマン、TATSUMI AKIRA and the LIMES、ぶっきら兄弟、ロックンタスケロール&ザキャプテンスゥイング、花岡献治aka憂歌団)の若者達が演奏され、多くの若者が集まった。
・児童公園では、「昭和あそび広場」として紙芝居、飴細工、切り絵などお年寄りや若者が子供達に昔の遊びを伝え、お年寄りや若者達と子供達との間に地域の和がつくられた。

・一方、学生達によるまちづくり研究の展示や伝統野菜の展示など多彩な催しがあった。

・昔懐かしいちんどん屋風に演奏しながら行進(ぶっきら兄弟、ロックンタスケロール&ザキャプテンスィング)なども昨年に続き行われた。

どっぷり昭和長屋
第3回 長屋の2階が舞台で通りに出店

【どっぷり昭和町】活動経過 第4回 平成21年(2009)4月29日
【どっぷり昭和町】活動経過

第4回 平成21年(2009)4月29日

・会場を長屋の「点」から「線」さらに「面」にと阿倍野区全域を目指して会場が16にまで拡大した。

・そして寺西家阿倍野長屋、四軒の二階両サイドにスピーカー設置し、その間の二軒の二階を舞台にし、私道から見上げて観る形式にした。それは、アートである長屋をよりよく見てもらう目的とアーティストが中に存在することにより長屋の窓枠が額縁になり、アート作品の完成と長屋が町中に発信するスピーカーとなり、まちのモニュメント化を狙ったものである。

・そこでは、日本の伝統芸能である能(阿倍野の能舞台で活躍する山中雅志)、雅楽(天地雅楽)、日本舞踊をはじめ、中国人による二胡(薫金明(ドンジンミン))、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロによるカルテット、ボサノバ、小西康晴によるDJ、ちんどん屋(ちんどん通信社)、ロックンタスケロール&ザキャプテンスィングなどあらゆるジャンルの伝統文化と現代文化との融合が図られたものであった。そして伝統文化の継承のキッカケとしてのパフォーマンスも紹介された。

・講演会では、井上理津子氏の「はじまりは大阪にあり」が講演され、それにちなんで昭和時代から活躍している企業のブースとしてグリコ、オルファカッターなどが、展示された。

・戦災を免れた阿倍野地域に残る「阿倍野の長屋町歩き」が、大学の教授達のリードのもとに行われ、我がまち発見いうことで、参加者から大いに喜ばれた。

・マンション建設予定地でのリサイクルマーケットの出店などもあり、大きく輪が拡がったといえる。
・又、「どっぷり昭和町」の前夜祭として、前日には、二胡の演奏会「二胡と中国茶の夕べ」が、南京大学海外教育学院招聘老師で中国音楽家協会の薫金明(ドンジンミン)氏により、町家で開催され、日中友好にも大きな役割を果たした。

・まちづくりの面では、私道上に200台を越す山積みの放置自転車があったが、「どっぷり昭和町」をきっかけに行政や警察の支援があり、花のある通りに生まれ変わった。このことを通じて町内会などと連携し、地域ぐるみで街を育てる機運が生まれつつある

山中能
第4回  地域での伝統芸 山中能
【どっぷり昭和町】活動経過 第5回 平成22年(2010)4月29日
【どっぷり昭和町】活動経過

第5回 平成22年(2010)4月29日

昨年度の活動に大きく二つのことが、付け加わった。
一つは、さらなる場所の拡大で、地域で伝統のある桃ケ池公園がお借りでき、「昭和の青空プロレス(紫焔)」をはじめ「チアリーダー(JUMPS)」「大道芸(むつごろう雑技団マジカル大道芸人:うーちゃん、たらちゃん、しょうちゃん、もも)」「カクテルショウ」などのイベント等に加え、フリーマーケットも出店した。
プロレス
第6回 桃ケ池公園でのプロレス
                      
もう一つは、「まちかど昭和写真展」の開催である。

これは、昭和の時代の写真を道の塀に貼り付けて昭和という時代を振り返ってみようという試みであった。押し入れなどに眠っている貴重な写真を提供してもらい、地域の移り変わりや生活の変化を知り、今の生活、今後の暮らしについて考えようというものであった。
短期間であったが、戦時中の写真、戦後のまちの移り変わり、台風の被害など百数十点の写真が寄せられ、年配の方からは、懐かしいそして若い人からは、はじめて知る感動の声が聞かれた。大切なことは、親から子へ、祖父母から孫へ地域での文化を引き継いでいくことと感じている。
写真館
寺西家の塀がまちかど昭和写真館

 また、苗代小学校での落語家15人(桂文太師匠等)による大落語会をはじめ、難波りんごさんの「阿倍野区の物語」講演などが、町家で行われた。
 長屋でもDJでは、小西康陽氏、JINやエレクトリック秘宝館のメンバー、ライブでは、ロックンタスケロール、タツミアキラ氏などそしてちんどん屋では、東西屋のメンバーが出演した。
 さらに草の根日中友好団体から南京大学からの薫金明(ドンジンミン)氏の二胡の演奏は2年目になる。
 阪南中公園の昭和の遊び広場では、飴細工、割り箸鉄砲、紙芝居、ぽん菓子、金魚すくいなどは、昭和を懐かしく感じさせ、子供たちの喜びの声がこだましていた。


【どっぷり昭和町】活動経過 第6回 平成23年(2011)4月29日
【どっぷり昭和町】活動経過

第6回 平成23年(2011)4月29日

 年々発展する「どっぷり昭和町」が、さらに発展し、行政との連携や阿倍野区商店会連合会に参加させていただくなど組織的にも充実させていただけるようになった。

 桃ケ池公園で阿倍野区長さんをはじめ、各議員さんや町会の代表の方に参加していただきオープニング・セレモニーが、開催された。このセレモニーは、「どっぷり昭和町」の開会だけでなく、以降、1か月にわたる「あべの祭り」の開会宣言でもあった。内容についても、より地域に密着したものとなり、オープニングでは、明浄学院および文の里中学の吹奏楽部による演奏や夢舞ing&夢舞っ子のダンス、それに地域の主婦の方々の手づくりクラフト展など地域の人達による催しがなされた。

それに、苗代小学校では、阿倍野区在住で、日本のシャンソン界を担っておられる奥田真祐美さんのシャンソンをはじめ住吉区の文化センターの協力で「銭太鼓」「ゴスペル」「民謡」「尺八」などが催された。
阪南中公園で、飛び入りで大阪市長 平松邦夫氏が、来られ、一緒に楽しまれた。

シャンソン歌手
第6回 苗代小シャンソン歌手奥田真祐美さん

平松市長
第6回 大阪市長も飛び入りで長屋へ


【どっぷり昭和町】活動経過 第7回 平成24年(2012)4月29日
【どっぷり昭和町】活動経過

第7回 平成24年(2012)4月29日

 大きな飛躍の年となった。
毎年、拡大を続けるなかで、新たに会場が桃山学院のご厚意でカンタベリーホールを提供していただけ「昭和町音楽祭」が開催できた。そのことで苗代小学校の講堂で児童等を対象とした「ダンボール遊園地」が開催でき、大好評であった。
又、昼間だけでなく、夕方からも地域で楽しんでいただこうと、初めて「昭和町バル」が開催され、当日、飲食店の前には長い行列ができた。
ダンスグループ
第6回 桃ケ池公園で地元のダンスグループ夢舞ing

昨年に続き、桃ケ池公園では、オープニングセレモニーが行われ、明浄学院の吹奏楽演奏、ゆるキャラ10体の集合で子供達の楽しい笑い声、恒例のプロレスの他、美勇士、来島けんじ等のライブなどを楽しんだ。その周囲では、昭和写真展、手づくりクラフト展、物産展を見て、買って、食べて楽しみ、大道芸やマジック等の芸に拍手を送り、投げ銭がなされた。           
クロスオーバー歌手
クロスオーバー歌手 小川響子(桃山学院)

桃山学院での「昭和町音楽祭」では、夢舞ingなど地域の団体、桃山学院から吹奏楽、ギタークラブ、聖歌隊の演奏があり、学校が地域に開放された姿であった。又、桃山学院の卒業生でクロスオーバー歌手の小川響子氏がニューヨークから特別参加、中国から菫金明氏が二胡の演奏、シャンソン歌手の奥田真祐美氏、三田裕子氏などプロのライブに喝采をおくった。

 阪南中公園での「昭和のあそび広場」は、阿倍野高校音楽部も参加し、昔遊びやステージショーなどで子どもから、大人まで楽しんでもらえた。
 苗代小学校の「ダンボール遊園地」では、巨大迷路、新聞プール等で小学生たちが、講堂せましと遊び回って楽しんだ。
ダンボール迷路
ダンボール巨大迷路(苗代小学校)

 寺西家では、伝統料理研究家の奥村彪生の講演会、写真による「昭和のくらし・戦争体験を超えて」が井原昌子氏の想いが大阪府立大学中村治教授の進行で語られた。そして、まち歩き探検隊が、大阪市立大学赤崎弘平元教授の「昭和のまちができたわけ」を学んだ。

昭和の日記事
4月28日毎日新聞に掲載された記事
【どっぷり昭和町】活動の成果
【どっぷり昭和町】

3、活動の成果

・ 今から10年ほど前には、壊れかけた老朽長屋が1棟あったところですが、それを生かす若者たちの努力によりお年寄りからお子様まで幅広く昭和の文化を楽しめる日がつくれるようになったのは、奇跡ともいえます。

・ 老朽長屋を再生し、景観をよみがえらすことにより、大阪の代表的な庶民住宅であった長屋が100年、200年と生き続けるということは、「使い捨て」文化による環境破壊、それに慣れ切った現在の生活様式を食い止め、新しい文化を創造する象徴でもあります。

・ 伝統を守り、新しい文化を創造するためには、建物の用途についても時代の要請に合わせたものにし、地域の人達に愛され続けなければなりません。そのためには、地域のお年寄りから子供までが、地域で顔を合わせ、お互いが、協力し合いことが必要で、「どっぷり昭和町」は、そのことを実践してきているといえよう。

・ 「どっぷり昭和町」の日以外でも「落語会」が毎月開催されており、それに「乙女文楽」、「生け花展」、「ホームビデオの会」、「伝統木造構造研修会」「煎茶の会」「呉服の展示場」「ステンドグラス展」「地域の手づくり展」など多彩な文化活動に波及しています。

・ これらのことを通じ、若者たちが、日常的に箒と塵とりを持ち、町内のゴミを拾い、声をかけあう姿は、小さなことであるが、まちづくりにとって大きな一歩であるといえよう。


【どっぷり昭和町】 今後の活動方針
【どっぷり昭和町】

4、今後の活動方針

・ 地域には、多くの個人や団体が、ダンスや音楽等を楽しんでおり、また絵画や手作りでいろいろなものを作っているが、それらの文化活動を発表したりする機会は、意外と少ないといえます。
「どっぷり昭和町」が、そのような機会となり、地域住民の交流やまちの成り立ちを知る機会の一助となり、地域住民の幸せと平和が継続できるように努力することが大切です。

・ 全国の昭和町(全国に99箇所)と連携し、毎年4月29日昭和の日は、昭和町の日として、全国規模で昭和の時代を振り返り、その地域の文化と伝統を次世代に語り伝え、楽しさ溢れるまちにできるように努力したいと考えております。
             (文責  寺西 興一)

寺西家の長屋と町家の立地
1、寺西家の長屋と町家の立地(大阪市阿倍野区)

(1)戦前の阪南土地区画整理の事業区域

 寺西家の長屋と町家がある地区は、大正12年に設立した阪南土地区画整理組合が行った阪南土地区画整理の区域内にあり、昭和6年に換地処分が完了し、事業が終了している。
その翌年の昭和7年に建てられた長屋は、水道だけでなく都市ガスが供給され、各戸にガス風呂が設置されており、その時代の先端の住宅地に建てられたといえよう。             
                       
(2)現在は、密集住宅市街地で建替奨励地域

建設時から約80年経った現在では、この地域は、密集住宅市街地に指定されており、特に昭和25年以前に建築された木造住宅を除却する場合、老朽住宅として大阪市から解体費用が補助される。又、長屋を住宅に建て替える場合、大阪市から補助があり、建て替えを推進すべき地域に該当している。

(3)地下鉄御堂筋線 昭和町駅近の裏通り

この立地の特徴は、何といっても駅に近いということがあげられる。大阪市の中央を背骨のように貫いている地下鉄御堂筋線の昭和町駅の出口から1分という立地にある。しかし、長屋の面する道は、町家をはさんで3.6mの幅員しかなく、私道となっている。

阪南土地区画
<大阪市 阪南土地区画整理の前後>


2.寺西家の長屋と町家等の建築時期と概要

 町家  大正15年建築  1棟    木造瓦葺2階建て 建築面積 102㎡
 長屋  昭和 7年建築  1棟4軒  木造瓦葺2階建て、建築面積 201㎡
  蔵  昭和10年建築  1棟    木造瓦葺2階建て 建築面積  18㎡

寺西家の長屋の再生と活用について
3、寺西家の長屋の再生と活用について

(1) 長屋の相続とマンション建設計画      
長屋は、築70年を過ぎ老朽化し、既に寿命を全うしたと考えられ、建替えるしかないと思っていた。従って手入れもされず、入居者が退去しても入居を募集しなかったので、すべてが空家になった。
私の両親は、以前から自宅である町家は、長男である私に、自宅前の長屋は、長女と次女に相続するようにいっていた。しかし、その場合、姉妹が老朽長屋を相続しても、活用方法が考えられないので、売却するしかないという。

 両親は苦労して守ってきた長屋が売却されてしまうと、自宅の前に「何を建てられるかわかからない」と不安がっていた。そこで私は、両親が健在な間に、老朽長屋をマンションに建て替え、それを姉妹が相続することで、両親の願いもかない、相続税対策にもなると考えた。
 建て替えの場合、敷地が、昭和町駅に近いところにあるとはいえ、大きな道路に面していない裏通りのため、事務所は、無理と考え、結局マンションしか考えられなかった。
 そこで、マンション業者が行う土地活用の講演会に参加し、数社からマンション建設の提案をいただいた。各社とも驚くほど熱心に建築計画や資金計画を作成していただき、非常に気にいったものがあり、契約直前のものがあった。

マンション
<提案されたマンション計画案>


(2) 戦前の老朽木造長屋が登録文化財に 
 マンション建設の計画を進めていた平成15年4月、京都大学(当時)西澤英和先生が取り壊そうしていた長屋を視察され「なかなか良い長屋で登録文化財になるのでは?」といわれた。
行政に勤めておりながら登録文化財ということを知らなかったので、私は、すぐに大阪府教育員会・文化財保護課の林義久氏を訪ねて聞いてみた。すると登録文化財の条件に該当し、そうなれば「長屋としては、全国で最初の登録文化財になる」と聞かされた。これには、心が動かされ、壊すのはいつでもできることだと思い、登録文化財に申請するとその年の12月には、国の登録文化財として登録していただけた。
改築前
<改修前の長屋>

(3) 長屋の改修工事
① 70年ぶりの外装改修工事          
 長屋は、取り壊すつもりでいたので、これまで修理されずにきた。内部は、入居者がいる間は、入居者自身によって手入れがされていたが、外部は、70年間当初のまま放置されてきたので、文化財というには、余りにもみすぼらしかった。
 長屋を人に借りて貰うためには、外観も大切なので改修工事をすることとし、その内容は、建設当初の姿に戻すことにした。そして、屋根の葺き替え工事や外壁の改装、物干し台の設置等を行った。
② 内部はテナント工事                  
 長屋は、店舗に貸そうと思っていたので、柱や土台で腐っているところは、修理したが、それ以外は、現状のまま残し、テナント工事として改装工事を行っていただいた。
棟梁
<改修工事をする川人棟梁>

(4)木造の方が鉄筋コンクリート造より長寿命
① 鉄筋コンクリートの寿命は、百年以下?
 一般に鉄筋コンクリートの寿命は、70年位といわれている。それは、コンクリートのアルカリ成分が中性化し、鉄筋が錆びだす時期を示しているという。鉄筋が、錆びて強度が無くなると鉄筋コンクリートは、崩壊せざるを得ないからである。
② 木造の寿命は、数百年?
 木造の場合、材木は、切り出してから100~200年の間は、強度が増していくということである。
しかし、木は、生き物であり、湿気ていると腐れや虫害にも合うので、風通しなどの日常管理が大切である。しかし、例え被害にあっても修理が可能であるので、建築材料としては、100年、200年は、寿命があるという。このことは、宮大工である川人良明棟梁が長屋や町家の改修で柱の根継ぎや土台の入れ替えなどをいとも簡単にしているのを目の当たりにし、実感することができた。

改修後
<飲食店に変身した長屋> 
賃貸マンション建設より長屋再生の方が高収益?
4.賃貸マンション建設より長屋再生の方が高収益?(寺西家長屋の場合)

 長屋の改修工事を終え、テナントも決まり、長屋から家賃収入が入って来るようになった。しばらくして、私にとっては、うれしい誤算に気がついた。よく考えてみれば当然のことであるが、それまで、文化財を維持するためには、経済的負担を覚悟しなければならないと思いこんでいた。
 だから、長屋を登録文化財にしたが、経営的には、マンションを建設していた方が、はるかに収益が多いと思いこんでいた。しかし、それは、逆であるということがわかった。

① 賃貸マンション建設は、スクラップ アンド ビルド

マンション業者から提案された資金計画を見てみると、マンション建設の場合、初期投資が1億7千万円位かかる。そのため借金しなければならず、その返済に毎年8百万円は必要で、それに加えて建物の固定資産等が135万円必要である。
 これらのことから、毎年1400万円程の家賃収入があっても、これらの支出を差し引くと手元に残るのは、300万円程度となる。
収益比較

② 長屋再生は、リユース

 長屋の場合、初期投資は17百万円と、マンション建設に比べて10分の1と少なく済んだ。これであれば、手持ち資金の枠内でできるので借金返済がない。このことは、収益にとって大きく有利であり、また、建物の固定資産税等は50年以上経っているので、その用途が、住居から商業利用になっても3万円程度(登録文化財で半額になっている。)とマンションに比べて二桁違うほど安い額となっている。
 これらのことから、収入は、マンション建設の場合の半額の約700万円としても、支出が少ないため600万円が手元に残ることになる。
 ただ、寺西長屋の場合、住宅を飲食店に用途変更したため、家主としての内装費用が不要であり、家賃についても住宅より高く設定でき有利な条件があったことが、大きく影響しているが、このように古いものを活かすことは、経済的にもメリットがあるということがわかった。


寺西家町家の再生と活用について
5、寺西家町家の再生と活用について

(1) 高層マンション建設の挫折の恩恵 

 長屋は、マンション建替計画が、長屋再生に転身したが、実は、その15年前にも自宅をマンションに建替えることで同じような体験している。
 平成元年、日本経済が「バブル景気」の終焉を迎えようとしていた頃に、私は、自宅である町家を9階建のマンションに建てかえる計画に着手していた。それは、当時、地価が高騰し、このまま継続して住んでいても「相続が発生すれば相続税が、払えなくなり、物納しなければならない」という資料を突き付けられことに始まる。
 大正時代の末に建てられた町家は、60年以上経っており、建て替える時期がきていると考えられたし、鴨居の高さが、丁度、頭を打つ高さであったことに不満をもっており、建替えの口実にしていた。
 建設業者との工事請負契約も終わり、8人家族が仮住まいに移転し、除却の直前までいった。
しかし、「高層マンション反対」の声とともに私が体調を崩したこともあり、マンション建設は、中止せざるを得なくなり、私の人生で最大の挫折を味わった。当時、2.5%という公定歩合が低金利時代と言われ、それが長年続いていた時代であった。そのような中で、このような低金利の時代は、二度と来ないだろう思った記憶がある。
その時は、その後のバブル崩壊による「失われた10年」、そして、現在の「ゼロ金利」時代の姿は、空想すらできなかった。
 振り返ってみると、挫折していなければ、今頃、入居者の確保と高額な借金返済に悩まされているに違いないと思う。

(2) 町家も登録文化財に 

 長屋を登録文化財にする時に町家や蔵もと勧められたが、町家の土地の方がマンションに向いていると考えており、遠慮させていただいた。
一度、自宅のマンションの建替えで、挫折を味わったのであるが、「金食い虫」の長屋を維持していくために、町家は、マンションに建替えその収益の道を確保しておかなければと考えていた。 
町家400
<T15年に建築された寺西家町家>

このことが、父親の相続の時に、後悔することになった。それは、平成16年、父の他界に合わせたかのように登録文化財の相続税の制度改正があり、土地・建物の評価額が3割減じられることになったのである。そのことがわかっておれば、町家の方も登録文化財にしておいたのにと後悔したのである。
 町家も登録文化財にしようと思ったのは、長屋が「金食い虫」ではなく「金の卵」であると気づき、そのための資金を確保しなくてもよくなったこと、それに加えて、私が「大阪府登録文化財所有者の会」の事務局長という立場にあり、登録文化財に該当する建築物があるのに資金を確保するためにと登録にしないことに抵抗を感じたためである。   

(3) 町家と蔵の改修と活用について
            
 町家が登録文化財になったのを機会に、屋根の葺き替えと台所と居間の改修工事を行った。
 町家を登録文化財にしたことでイベントに使わして欲しいとの要望があり、現在では、毎月、田辺寄席による「上方落語の会」の開催や「生け花の展示会」「乙女文楽の会」「二胡の演奏会」「地域の手づくり展」などの会場として利用していただいている。
 又、「今では、珍しくなった町家の蔵を生かしたい」ということで、道路に面した蔵の壁に入口を設け、店舗として使えるように改修し、現在は、お蕎麦屋さんが入店し、営業をされている。
蔵
<改修された蔵>     


粗大ゴミが、磨けば宝石に!!
6、粗大ゴミが、磨けば宝石に!!

 私が、長屋再生に係わって、良かったと思っていることの一つは、親から老朽長屋で潰して捨てるのにもお金がかかる「粗大ゴミ」を引き継ぐことになったが、人の勧めで、それを残し、活用することによって、実は、人に喜んでもらえる「宝石」であったということに気づいたことである。
また、老朽長屋をゴミとして燃やして、埋めてしまわなかったことは、現在、地球的規模で進行している環境悪化に対して少しでも抵抗できたのでは、ないかと思っており、現在の日本社会の基本構造が無意識の内にスクラップ・アンド・ビルドの方式になっているのだが、それに飲み込まれるのを免れたと感じている。

 戦前の日本人には、物を大切にし、その物を活かしきるという知恵があったと思う。このような知恵をもった日本人の文化と伝統を活かすことが、日本の再生につながると考えており、そのことは、さらに世界の文化の発展と平和な世界を築いていくことになると考えている。
 それともう一つ、望外のよろこびは、長屋を残しませんかと言ってくれた人、老朽長屋を改修してくれた宮大工の棟梁、長屋を生かしながら活用してくれている借家人をはじめ、ここを訪れ喜んでくれる人々との和の交流ができるということである。このことは、私にとって何物にも変えがたい大きな大きな財産として積み上げられていることである。

 最後に、建築物を大切に永く使いこなすことが必要であるが、特に、在来木造建築については「耐震性能や防火性能の向上」「改修方法の技術の伝承と技術者の育成」「改修工事に対する法律を含めた制度的整備」等が今後の課題として考えられるので、これらのことを解決するために努力をしていきたいと考えている。





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